私の「ビジネス版舞踏会の手帳」

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zoom RSS  ブルノ その六 (二〇〇八)

<<   作成日時 : 2010/09/28 14:10   >>

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;ブルノ新開設老人ハウスDDSに招かれて講演を

翌日四月二十二日、プラハ本駅発八時二十三分 ブルノ駅着十時四十五分で定刻より五分早く、二時間二十二分の所要時間で列車は五号線か六号線かのプラットホームに到着した。二〇〇〇年にブルノに到着したときは、バニョバ夫妻がプラットホームで出迎えてくれていた。
ご主人は入院中であり、前日のバニョバ夫人との打ち合わせではブルノ駅の正面乗り口の構内で会いましょう、となっていた。
プラットホームからは地下道を通って出口あるいは正面乗り口に向かう。ブルノで下りた乗客たちが一群となって地下道に向かう。地下道からはプラットホーム毎に表通りに出て行く出口がある。バニョバ夫人とは正面乗り口の構内という約束だったので、地下道を歩き続けた。どの出口にもCenterとか Zentrumと表示されている。市内中心へ、という表示である。
気を付けて見ていたが、Main Entranceとか Haupt Eingangとの正面乗り口方向との表示はなく、ほとんどの人たちは出口から地上に出て行く。このまま地下道を歩き続けると駅の裏側に出てしまうかもしれない。やむなく市内中心と書かれてある一つの出口から地上に上がった。
本駅からやや離れた出口であり、トラム(市内電車)の線路を越えて本駅の正面乗り口待合室に早足で向かった。十一時少し前に正面乗り口に着いた。列車が到着して十分余り経過している。
正面乗り口待合室の構内にバニョバ夫人の姿はない。昨日遅くプラハから戻ったから、今朝は当然病院に行っていることだろう。少々遅れるだろうと三十分程待った。それでも現れない。病院でのご主人のお見舞いには時間がかかるであろう。
昨日、念のためとしてメモ書きしてくれた老人ハウスの住所のメモを取り出し、タクシーでハウスに向かった。
後で思ったが、よくもハウスの住所をメモ書きしてもらったものだ。
このメモがなければ老人ハウスにどうやって行ったらよいのか分からないところだった。
十五分ほどタクシーが走りハウスに到着した。入り口には入居者の人たちの名前が表札式にずらりと並べてあり、それぞれにベルがある。そのどれかを押さないと入り口のドアは開かない。誰でもが入れるハウスではなくプライバシーを大事にしているようだ。
管理者の部屋があるはずだが、チェコ語の表示であり、どのベルを押したらよいのか分からない。
入り口でしばし佇んでいると、老年の男性が中から出てきた。
老年のチェコ人はドイツ語を話す。管理者の部屋はどのベルを押せばよいか、訊ねると、一つの部屋のベルを押し、応答した女性と話している。彼が入り口の扉を手前に引くと扉は開かれた。
この老人にお礼を言って中に入った。
中でうろうろしていると、中年の女性が出てきて微笑んでくれた。
管理人であり、外国語は話さないが、ドイツ語なら少し分かると言う。
バニョバ夫人と駅で会えなかったが、本日ここにお邪魔することになっている、と自己紹介をした。
彼女は微笑みながら、私の来ることは当然承知している、どうぞ、どうぞ、と管理人室に案内された。
バニョバ夫人に連絡をとってほしい、と依頼し、彼女はどこかに電話をしていた。上手くつながらないようで、二ヶ所ほどに電話をしていた。一旦電話を終え、私に「もう少し待っていて下さい」と言ったようだった。
二十分ほどして電話があり、管理人は「バニョバ夫人は一時過ぎにここに着ますからもう少し待っていて下さい」と時計の針を示した。
一時半過ぎにバニョバ夫人がようやく姿を見せた。
「駅に出迎えたのですが、あなたが着かないので、病院にそれから行きました」と言う。
たった十分ほども待ってくれていなかったということになる。
到着のプラットホームから正面乗り口待合室に着くのは地下道経由であり、途中に出口がたくさんあり、乗客もたくさん歩いており、慣れていないと勝手が分からず、そのため少々遅れてすみませんでした、とまずはお詫びをした。
地下道経由で正面乗り口待合室に行くのはブルノ駅に慣れていない人にはそう簡単ではないですよ、と言いたかったが、それは抑えた。
二時から講演を始める予定で、もう何人かがホールに集まっています、と言われ、今晩泊めてもらうゲストルームに案内された。夫人はばたばたとしており、事前の打ち合わせなどの時間もなかった。
ご主人の病状で、心ここに有らず、との印象を受けた。無理もないことである。
スーツを着替えて、ホールに向かった。もう二、三十人の入居者がホールに集まっていた。車椅子の人も二、三組見られたが、七〇代から八〇代の人が多く、女性が七割ぐらいを占めていた。元気そうな入居者が多い印象だった。
九年前の二〇〇〇年にブルノの雑誌社編集長の取材を受け、バニョバ夫人に通訳をしてもらっている。
  「ブルノ その四」を参照
バニョバ夫人は私のことを知り尽くしてくれている。ぶっつけ本番で話を始めた。

まずは「ドブリーデン!(こんにちは)」と久方ぶりのチェコ語の挨拶から始めた。
六二年のバニョバ夫人との鋳物工場での出会いから始め、ブルノ鋳物工場での経験、それからプラハに転進してStrojimportとビジネスを開始。数多くのビジネスの機会が与えられ、商談は西欧勢との競合でまことに厳しいものであったが、ビジネスを通じて公団の幹部・担当者たちの多くと胸襟を開き相互信頼感が醸成され、多くの友情が芽生えることができた、ことを話した。
当時の写真を時代を追って整理したアルバムを、バニョバ夫人に事前に送っていたので、そのアルバムが回覧されていた。
私は一九八〇年代の五十歳代前半の頃、第一線で気力に溢れ順調にキャリアを積んでいたが、ドイツ駐在時に当時流行った風邪で耳が侵され、帰国後にだんだんと悪化していき、日々の活躍に支障が出てきた。
このまま会社にいても惨めになるだけ、と見切りをつけて、五十五歳で退職を決意し人生挫折した。
そのときの惨めさと辛さ。死を覚悟し直前までいったが、そんなに簡単に死ねるものではないことも思い知らされた。
その折にチェコの『ビロード革命』のお陰で、私の過去のチェコでのビジネス経験が思いがけずも話題となって生かされ、出版、講演などで社会に戻ってくることができた。
聞こえが悪いため、ノートテイカーの助けを得ての二人三脚での人生への再挑戦となった。
しかし、挫折し障害を抱えた日々はやはり苦しい。
自分で設けた、ここまでは頑張ろう、との「しめきり人生」で、なんとか生き抜けてきた。
確実にいえることはチェコの「ビロード革命」がなければ私はこの世にはもう生きていない。
チェコは私のいのちの恩人であり、「心のふるさと」である。
しかし七十六歳となり、もう若くない。「しめきり」は向こうからやってくるだろう。
これからは「失って初めて気が付く今の幸せ」の日々となるであろう。
これからも辛いことがたくさん出てくるだろう。
しかし、人生はたった一回限り。どうせ一回限りなら、沈むよりは前向きに、失うものをできるだけ避けて生きていきたい。
たった一度の人生。皆様もこれまでたいへんなご苦労を重ねてきておられる。それを乗り切ってこられたそれぞれの人生を大事にして、共に生きていきませんか。

入居者はそれぞれに過去を抱えている。
とくにチェコのこの年代の人たちは、ナチスの占領、その後はソ連派による共産党一党独裁支配、「プラハの春」の挫折、より厳しい抑圧の冬、そして夢にも思わなかった「ベルリンの壁の崩壊」と「ビロード革命」の成就、そして今日の自由化、EC加盟、とまさに波乱万丈の人生を過ごしてきている。
ここは立派な老人ハウスであるが、やはり家族から離れての生活。
しかし、ここでは皆様に仲間がいる。
これまでの抑圧された長い冬を思えば、「失った人生」だけではなく、「これから取り戻せる人生」もあるのではないでしょうか、などなど私自身に語りかける気持ちで、入居者の人たちのそれぞれの人生に思いを致して一時間余り話しかけた。
私はすっかり下手になった英語で話したが、チェコでトップクラスのバニョバ夫人の通訳であり、さぞかし見違えるように、心に訴える内容でチェコ語で話してくれたことであろう。多くの女性が涙ぐんで聞いてくれていることを見て、私も思わず涙ぐむこともあった。
その晩、バニョバ夫人宅に招かれたさい、聞き取りの悪くなった私のために、すばらしい英語でこのようなメモをさらさらと書いてくれた。

 Many of the elderly ladies had wet eyes. They were really touched by your strong and by the sincere way
you recollected the difficult times of your life; They had to wipe often their tears.
(年長の婦人の多くが涙ぐんでいました。彼等はあなたが人生で苦しかった時期に、強く誠実に生きてきたこれまで を思い出しながら話すことに心から感動していました。彼等は何度も涙を拭っていました)

 Your recollections of the past activated their own memories and they found it interesting to hear how a
foreigner reacted to the changing conditions.
(あなたが過去を思い出している姿に彼ら自身の過去の思い出を重ね合わせていました。
 そしてチェコの国が変わっていったことに対し、外国人がどのように受け止めていったかを、直接聞いて興味深く
 思ったようです)

老人ハウスを訪れたのは、私はこの時が初めてだったが、多くの入居者が、真剣に、時に涙ぐんで聞いてくれたことは、私にとり、とても光栄でうれしいことだった。
講演の様子につき、管理者が数様の写真を撮ってくれた。
この老人ハウスの外観の一部と合せ、以下に収めている。


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この後、バニョバ夫人は、旧鋳物工場の跡に数年前に新しくオープンした一大ショッピングセンター・レストラン街に案内してくれた。
二〇〇〇年にブルノを訪れたさいに、ご主人の運転でこの鋳物工場跡を訪れたが、思い出深い鋳物工場がすっかり荒れ果てて、いまや無惨な廃墟となっていることを目の当たりにした。
「ブルノ その四」で写真と共に記している。
数年前にバニョバ夫人から手紙があり、あの旧鋳物工場Vankovka がGallary Vankovkaと呼ばれる近代的ショッピングセンターに生まれ変わった、と写真を添えて報告を受けていた。
ブルノは、八年を経た二〇〇八年も、街の様子はほとんど変わらず、一方ますます華麗になっていくプラハなどからはすっかり置き去りにされているように映るが、唯一このGallary Vankovkaが、ブルノの名所であり人たちの憩いの場となっていた。
ここで四十六年前にバニョバ夫人と、鋳物工場独特の砂かぶり中で一ヶ月も仕事を共にしたなど、まさに信じがたい思いだった。
カフェに私を案内して、バニョバ夫人は「ここでゆっくりとくつろぎ、そして生まれ変わったこのセンターの写真をあちこちで撮って下さい。私はこれから病院に行きます。主人がハウスでの今日の講演会を設定しただけに結果を知りたいと思っているでしょう。入居者の多くの人たちに喜んでもらった、と報告してきます。今晩は私の家に来てください」と言って、そそくさと立ち去った。
ご主人の症状があまり芳しくないようで、たえず落ち着かず、常に「心ここにあらず」であった。

その晩、八時ごろにバニョバ宅をタクシーで訪れた。
バニョバ夫人は、病院から戻ったばかりで買物もできなかった、ほんとうに有り合わせでの軽食になってしまい申し訳ありませんが、と言って、チーズの盛り合わせと白ワインでもてなしてくれた。
昨日のプラハでの講演会の通訳、そしてウインケルヘーフェローバ先生と私の会合にもかけつけてくれ、その後バスでブルノに戻り、本日は私のために老人ハウスで通訳をし、Gallary Vankovkaのショッピングセンターへの案内、その間の時間を縫ってはたえず病院に駆けつけご主人の看護であり、見るからにお疲れのようであった。
このような折にお世話をかけて申し訳ない、との一言に尽きる思いだった。

マイク式補聴器を口元に持って話してもらいたかったが、それをお願いするような雰囲気ではなく、私は耳かけデジタル補聴器のままにしておいた。簡単な内容はなんとか聞き取れるが、夫人の英語にはむずかしい語彙が多く含まれることが多い。こちらも強行軍の連続でいささか疲れていたこともあろうが、だんだんとほとんど聞き取れなくなってきた。
「申し訳ありませんが今お話いただいた内容は私にとり大事なことであり、お手数ですがメモに書いてくれませんか」とお願いした。
夫人はさらさらとメモ用紙に書いてくれた。その三枚が前記したメモである。
前日の先生との会合の印象を書いてくれたメモには、例えば get rid of (免れる)など、文章に出てくるような立派な表現であり、今の私の耳ではとても聞き取れない。
それにせよ、なんと英語がダメになったのか、とつくづくと情けなくなってくる。
しかし、考えてみれば、前回二〇〇〇年の訪問のさいは、事前に三ヶ月ほどネィティブ・スピーカーの先生から、マイクを使ってではあるが、英語のレッスンを受けていた。前回は聞き取りにさほど問題がなかったのは、そのレッスンのお陰もあったのであろう。
それから八年近くも経ており、ネィティブの先生がカナダに帰ってからは、英語で話す場面はほとんどなかった。
健聴者であっても外国語は使わなくてはレベルが落ちてくる。旅行中は英語なりドイツ語を毎日使うので、数日すると話すことはいささかはスムーズになってくる。
しかし夫人の流暢なプロ通訳の英語はそうはいかない。ましてや耳かけであり、完全に「降参」といった感じとなった。しかしメモに残してもらったお陰で本稿の執筆には大いに助かる。
しばらくして、タクシーを呼んでもらい、夫人から運転手に、ハウスの入り口のどのベルを押すか、をよく説明してもらった。さもないと夜遅くであり、扉が開かず、ゲストルームにも入れない。
運転手が入り口で管理人室のベルを押すと、夜勤の看護婦がドアーを空けてくれた。
それにしてもご主人の入院はバニョバ夫人にとってはたいへんなことであろう。
夫人は著名な通訳としてあちこちから依頼を受けて飛び回っているが、あのスケジュールの調整はご主人がこれまで行っていたようであり、ご主人のサポートがないと夫人の活動も容易ではないと推察される。
いつも微笑みながら横で黙って座っておられたご主人のありがたさを、私も今回の訪れで実感し、これまでに感謝すると共に、快復を心から祈ったのだった。

新装なったGallary Vankovkaの写真と、二〇〇〇年当時の旧鋳物工場の廃墟と対照させて並ばせてみた。

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ブルノからベルリンへ

四月二十二日にブルノの老人ハウスのゲストルームに宿泊し、翌朝はブルノ駅から国際列車でベルリンに向かった。
今回のチェコからベルリン往復の国際列車の指定席の予約など切符の手配は、ボチルカの孫ベロニカがすべて事前のEメールの打ち合わせで手配してくれていた。ブルノからベルリンはプラハを経由することもあり、七時間半ほどであるが、過去の東ドイツを縦断するだけに楽しみにしていた。

ブルノ駅には時間の余裕を十分に見て、ハウスから早めに到着した。
列車の発着時刻とプラットホームナンバーが改札口の上に大きな掲示板で示されており、列車の発着に伴い、パタパタと掲示板が動く。
私の乗車する列車はハンガリーのブタペスト発となっており、これは遅れる可能性がある、と見込んだ。
予定時間の一時間ほど前までは予定は変わっておらず、乗車プラットホームは改札口から出たすぐ前の1番ホームだった。表示板の列車の順番が競りあがってくる。このまま到着してくれることを念じていた。

しかし、やはり懸念した通り、到着予定の二十分ほど前になり、突然 Delay(遅れ) と変わり、列車の到着時刻とプラットホームナンバーが掲示板から消えてしまった。

ブルノ駅構内の INTETRNATIONALの窓口に行き、私の搭乗予定の列車の状況を尋ねたが、係員の女性はチェコ語しか解さないのには驚いた。
プラハでは店の人、タクシーの運転手など、現在はまず皆英語を話す。西欧の他の一流観光都市の堂々たる仲間入りをしている。それに比すと、第二の都市ブルノはまったく昔のままに取り残されている。昔はナチスの支配もあり、多くの人がドイツ語を解したが、今日のブルノでは高齢者を除き、ドイツ語も無縁となっており、ブルノ駅の国際窓口でもチェコ語しか通じなくなっている。

到着予定の十分前になっても私の乗る列車は Delayの表示だけで、掲示板の順序がどんどん後送りされていく。
不安になってくる。
横に座っている学生風の若い男に声をかけ、「英語で話してよいですか」と訊ねると、「どうぞ、英語は話しますから」と答えた。
「ブタペストのあの国際列車に乗ってベルリンに行くのですが、遅れで到着の到着時間も到着ホームも消えてしまっていますが」と言うと、「いつもですよ。心配なく。私もあの列車に乗りますから、私についていれば大丈夫ですよ。車両番号は何番ですか」
切符を見せると、「私もこの車両に乗りましょう。乗る列車の停まる場所で待っていないと、うろうろしていると発車してしまいますよ。遅れているだけに余計早く出ます。私は指定席券を持ちませんが、プラハの先の駅まで行きます。
空いた席の一つや二つは必ず見付かりますから」
たいへん丁寧に教えてくれ、本当に一安心だった。

列車の予定到着時間は過ぎてしまい、プラットホーム1番には別の列車が入ってきた。
20分ほど予定より遅れ、掲示板がバタバタと動き、一番上にこの列車名が出て、到着ホームは三番と出た。
待合室の多くの人たちが一斉に動き出す。
学生風の彼が「さあ行きましょう」と地下道に向かう。地下道は到着したときにうろうろした分かりにくいところである。三番ホームへの上り口も表示がよく分からない。
彼がいてくれて、本当に助かった。後をついて、これが三番ホームなのであろう、ホームに上がった。
私の乗る車両はだいぶ先の方に停車する。
まもなく列車が入ってきた。多くの人たちが前後左右への動くためホームはごったがえす。人垣を掻き分けて彼の後を追い、お陰で指定列車に乗り込めた。
彼は「あなたはこの車両の一番前のボックスです。私はここが空いていますから、ここに座ります」と手前のボックス席にいち早く入った。
列車は六人がけのボックス席となっており、ボックスの入口の扉の上に、それぞれの六つの席に乗る乗客の行き先が記してある。空席があるかどうかはすぐ分かる。
一番前のボックス席の入口の上にベルリンと書かれてある私の指定席が確認できた。窓際である。
ここを確認して、親切だった彼に礼をいうため、彼の入ったボックス席まで戻ると、彼はすでにパソコンを開いて作業をしていた。礼をいうとにっこり笑って片手をあげた。

チェコはEUに加盟し、EU経済圏にても他の中欧・東欧諸国に比して堅実な動きを示している。
彼のような若者がしっかりと仕事をしているからであろう。
相席の二人は子供連れの中年婦人だったが、プラハを過ぎてドイツ国境前の駅で降りていった。
そこからベルリンは四時間弱であったが、六つの席を一人占めしてくつろぐことが出来るが、一人になるとかえって困ることも出てくる。欧州の列車内には「こそ泥」のプロが多くいる。日本のようにすべての荷物を置いてトイレに行くなどすると、あっという間に貴重品は抜き取られ、また荷物も取られてしまう。今回はプラハのホテルに荷物は預け必要最小限だけを持参していたが、それでも油断は一切出来ない。パスポートとか財布などは一瞬といえども肌身から離してはならない。

列車はエルベ川に沿って北上する。切り立った岩山が目立ってくる。ザクセン・スイス。初めて眺めた奇岩や岩峰が続いている。なかなかのパノラマである。十年ドイツに住んでいたのだが、ザクセン・スイスという名所があることを」初めて知った。旧東ドイツ内であり、訪れることなど出来なかったから、知らなかった、のは当然か。
列車はドレスデンに着いた。本来ならドレスデンは一泊して訪れるに価する。第二次大戦の空爆で徹底的に崩壊したが、昔の資料を忠実に生かしてほぼ完全に再興されている。列車から眺めるだけでも歴史的建築物が多く見られる。
ライプツィヒ、マイセンには80年代の駐在時に、東独ご自慢のライプツィヒ見本市のさいに訪れているが、それ以外の東ドイツの町はまったく知らない。
列車はベルリンに到着した。二十一時過ぎだった。
2006年6月に、サッカー杯に合わせて開業したベルリン中央駅。欧州でも最大級のモダンな鉄道駅。二つの階層に別れ、十四のプラットホームがある。南北に走る列車は地下駅に、東西の路線は地上駅と、初めて来るとうろうろする。地下駅に着いたので、地上の駅構内に出るには、急角度の長いエスカレーターに乗る。どの急角度は怖いと感じるほどである。周囲にはエスカレーターが何本も走っている。
この中央駅の駅舎は高さ四十六メートルで二つのオフィスタワーを擁し、東西は一六〇メートル、南北は四〇メートル。外装はガラス張りのメタリックであり、超モダン。二十四時間営業のショッピングセンターも構内にある。
ロンドンのヒースローターミナル5と同じく、開業まもない最大級の規模の施設には、初めての旅行者は戸惑いを与える。なまじ昔のベルリンを知っている私にはより戸惑いである。

明後日のプラハ行きの列車のプラットホームを予め調べ、ホームまで下りて、列車の指定席の停車位置も表示板で確認しておいた。
難聴者になっての「一人旅」は、事前の準備、確認を十分に行っておかないと乗り遅れなり予期しないトラブルに巻き込まれることが多くなる。マイクでの案内が聞き取れないことは、やはり致命的ともいえるハンデなのである。

ベルリンの旧友

ベルリンには一九六二年以来の旧友がいる。
私の六一年から六七年までの最初のデュッセルドルフ店勤務のさいに、六二年から六四年まで私の秘書を務めてくれた女性である。
この期間、私はチェコそしてルーマニアにほとんど行き詰めとなったため、私が同時に担当していたベネルックス向けベアリングや工具などの売り込みを、ベルギーの代理店および大阪機械担当部と連携して毎日のテレックス交信で一手に引き受けてくれていた優れた秘書だった。
六五年にパンアメリカン航空のスチュワーデスに採用され、退社しニューヨークに移転することとなった。
当時私はブカレストで貼り付けとなっており、彼女が事務所を去る時は「さようなら。これまで本当にありがとう。
Auf Wiedersehen!」とのメッセージを送るだけで終わってしまった。

事務所での秘書たちの出入りは多い。彼女にはこれで会うことはもうない、と当然思っていた。
私は六七年一月に六年ほどのデュッセルドルフ駐在を終えて帰国した。
当時の私の記録の手帳を見ると、同年三月にデュッセルドルフ店を経由して、ニューヨークの彼女からメッセージがあり、休暇でこれこれの便で日本に数日立ち寄るのでせひとも会いたい、とある。
これにはびっくりしたが、スチューワーデスになってすでに三年近くとなっており、旅行はお手の物だろう。
「歓迎します」と返事を送り、羽田で出迎え、東京で二日、京都で二日、そして当時の大阪伊丹空港で見送った。
七〇年代、私はブラジルにしばしば出張した。東京からはニューヨーク経由でリオデジャネイロ、サンパウロに赴き、帰路もニューヨークを経由する。午前十時頃に到着し、出発は午後九時頃であり、七、八時間の昼間の待ち合わせ時間がある。都合の合うときは彼女と昼食を共にした。
これも記録の手帳によるが、七三年二月私がリオからニューヨークに向かう夜行便PA202に搭乗したさい、彼女もこの機にスチューワーデスとして搭乗するという偶然もあった。
彼女は会うたびごとにスチュワーデスになってからの「華やかな恋の遍歴」を、あたかも兄に報告するように縷々と私に話し、常に「どう思う?」との連発。
彼女は両親と妹一人で、兄も弟もおらず、まったく別世界に住む私からは第三者に話が流れることがないこともあり、彼女の悩みとか相談を聞いてアドバイスを与える、というまさに「義理の兄」みたいな存在となってしまった。
彼女は七〇年代後半にいまのご主人と結婚しベルリンに住む主人のために、パンアメリカンを退社し、ルフトハンザのベルリンベースに入社し直した。
八〇年代に私がドイツ法人社長となりデュッセルドルフに四年間駐在したが、この折には近くにいながら会う機会はなかった。彼女はパーサーとなっており、週三〜四日は欧州、中近東を飛び廻ってきわめて多忙であり、ご主人もいることであり、と会うことを控えていた。クリスマスカードを交し近況を報告しあう程度だった。
再会は、聴覚障害で私が挫折した後となった。
八九年に「ベルリンの壁」が崩壊し、東欧革命が相次ぎ、私はそのお陰で絶望のどん底からなんとか這い上がり、これまでに書いてきたように、九〇年にチェコ、ルーマニアを訪れたさいに、ベルリンに立ち寄った。
そのさいに自宅に招かれた。二〇〇〇年のチェコ訪問のさいもベルリンに立ち寄り、旧交を温めた。
しかし、この頃から彼女の生活は暗転した。ご主人と別居することになってしまった。
それからの彼女の生活は苦難の連続であった。年数度は手紙でもろもろの悩みを訴えてきた。
その度毎に、アドバイスを送り、なんとか元気づけるべく返信を送った。
今回の旅にては、ブルノから国際列車でベルリンに回り、夕食を共にして話を聞き、沈み込む彼女を励ました。

本稿は「チェコ編」であり、ここではこれ以上はふれないが、彼女もチェコの友人たちと同じく「私のビジネス版舞踏会の手帖」にては欠かせない重要な友人なのである。


プラハでボチルカに会えず

ベルリンに二泊し、列車でプラハに戻った。プラハまでは四時間半。到着はプラハ本駅ではなく、ホレショヴィツェ駅。街の中心からやや離れている。
この駅からのタクシーは値段を貪ることで有名だったが、今回は強行軍であり体調も芳しくなく、地下鉄に乗る気力がなく、やむなくタクシーを利用した。案の定、だいぶぐるぐると遠回りをしているな、はすぐ分かった。
「方向が違うじゃないか。もっと近道で行け」と英語で指示したところ、「今の時間は終業時間と重なり、もっとも混んでいるから、それを避けている」と答えた。たしかに混んではいたが、こうした文句を言う客は、外国人であってもある程度プラハに通じているな」と解したのか、それからは近道を抜けて走っていった。
ホテル・マジェスティックに到着。先の特別室に引き続き案内してくれた。
プラハでは当然ボチルカと再会したかった。
三年ほど前から、必ず受け取っていたクリスマスカードがボチルカから届かなくなった。
姪のベロニカにメールで訊ねたところ、祖父は病状が悪化しており、カードを書けなくなっている、との返事だった。
今回の訪問時にベロニカにその後のボチルカの症状を尋ねたところ、アルツハイマー病に侵され、今は祖母しか認知できなくなってしまっている。孫の私も誰か分からないというほど病状が悪化している、とのまことに悲しい報告だった。
今回、このホテルの特別室を割引で私のために用意したのは、祖父に会ってもらえない、さぞかし私が気落ちするであろう、と思い、それを償うため、支配人に話し、了承してもらった、との彼女の説明だった。
支配人は中年の女性だったが、私の到着時にはわざわざレセプションまで挨拶に来てくれた。
レセプションの他の係員たちも、皆、私には特別の配慮をしてくれていた。
ボチルカとはもう会えない。ある程度覚悟はしてきたが、実際にプラハに来て、私の落胆、失望は大きなものとなった。ネメッツも病身状態にあるとのこと。
ブルノではバニョバ夫人のご主人の病状も悪化していたし、プラハではボチルカ、ネメッツも病に冒されている。
プラハに一泊したが、もうどこにも出かける気持ちにもならない。
翌日のプラハ発ロンドン行きのチェコ航空。そして乗り継いでのロンドンから成田へのBA機。
往路のトラブルを埋め合わせるごとく、きわめてスムーズであった。
今回の駆け足でのチェコ、ベルリン訪問はプラハ到着の翌日にウインケルヘーフェローバ先生に会うことができ、最大の目的は達していたが、以降のブルノ、ベルリン、最後のプラハ訪問は私を失意に陥れてしまった。

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