「ベルリンの壁」崩壊から23年 その1

1989年11月9日夜、東西ベルリンの人たちは歓喜と興奮に包まれていた。分断の象徴だった壁が東欧革命の流れで、ついに開放されたのだ。 「ベルリンの壁」、1961年8月13日、日曜日の朝、ベルリン市民は街が分断されていることに気がついた。深夜のうちに西ベルリン全体は鉄条網で張り巡らされ、3日後にはブロックとコンクリートの壁が着々と建…
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「ポツダム広場」の盛衰と「チェックポイント・チャーリー」 その2

「ポツダム広場」の盛衰  ベルリンにて、「ポツダム広場」の名前がついたのは、1831年のことである。  当初は六本の道路が交差しているだけだったが、1838年に鉄道の駅が造られると、ベルリンの中心地として急速に発展した。交通量は増すいっぽうで、20世紀初頭にはすでに電車も走って、「1分間に10台行き来する」ほどの賑やかさとなって…
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「ホロコースト記念碑」 「ブランデンブルグ門」 その3  

 ホロコースト記念碑 (旧ヒトラー総統官邸跡)  ブランデンブルグ門からポツダム広場につながる大通りは、「ベルリンの壁」が走る「東西冷戦・分断の象徴」だった。壁の崩壊後、ポツダム広場の修復後も、この一帯だけは荒地のままにずっと放置されていた。首都ベルリンの真ん中が荒地だったのは異様に映っていた。  ここにはヒットラー総統官邸…
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「宮殿広場」の変遷 その4

 ベルリンの中心をなす大通り ウンター・デン・リンデン。菩提樹の並木の荘重な建物群が大通りの左右に並ぶ。1400メートルの長さと60メートルも幅をもつ通りである。 ブランデンブルグ門のあるパリ広場から東に一直線にのびていて、シュプレー川に架かるシュロス・ブリュッケ(宮殿橋)を越えて、かっての王宮のあったシュロス・プラッツ(宮殿の広場)に…
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「大聖堂」 その5

 「ベルリン その4」で、「宮殿広場の変遷」を紹介させていただいたが、このかっての「王宮」と、東ベルリン政府が建設した「共和国宮殿」の前には、ベルリン大聖堂が通りの反対側、シュプレー河畔に威容を誇るように屹立している。大聖堂は1894年から9年をかけて建設され、「フリードリヒ大王時代の様式」と呼ばれるプロイセンのネオ・バロック・スタイル…
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アレクサンダー広場と「テレビ塔」 その6

 ベルリン大聖堂を通り越してカール・ループクネスト通りを東に行く。途中の右側には森鴎外の『舞姫』で出会いの舞台となったマリエン教会がある。ベルリンで2番目に古いプロテスタント教会である。教会の奥」には赤レンガ色の建物があり、ベルリン市庁舎である。  この散策の終点はアレクサンダー広場であるが、その見印は「ベ…
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クーダムとカイザー・ヴイルヘルム教会  その7

通称クーダムといわれる大通りがクーアフュルステンダム。全長3.5Kmの大ショッピングストリートである。 東西分割時代の西ベルリンでは東ベルリンを意識した西の繁栄の「ショウウインドウ」の役割を果たし、老舗のデパートや高級ブテイック、専門店、レストラン、カフェなどが延々と軒を連ねていた。 統一後もベルリンを代表する繁華街である。 …
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「連邦議会議事堂」の歴史  その8

「ドイツ連邦議事堂」は、ブランデンブルグ門から5分とかからない。 しかし、ここには悲惨な歴史がある。 ヒトラーが政権を握り、それまではプロイセン王国、バイエルン王国など「四つの王国、六つの大公国、四つの公国、八つの侯国、三つの自由都市など」があったが、「国民すべからずドイツ人」とされて、国民のパスポートには「国籍ドイツ」と記載さ…
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「ベルリンの壁」の歴史と遺物 その9

東西を分断していた「ベルリンの壁」が崩壊したのは1989年11月9日のことだった。 「ベルリンの壁」の歴史は悲惨なものであり、今日は「遺物」が残されているところも限られている。 この項では、「壁」の歴史と「遺物」を綴ってみたい。 第二次大戦の戦敗国ドイツは、連合軍によって西ドイツと東ドイツに分断された。 首都だったベルリンは…
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あとがき

1960年代初頭、いまだ日本は欧米から大きく立ち遅れていたが、私はデュッセルドルフ事務所に駐在の機会を得たので、日本としては未開だった東欧共産党一党独裁支配国家に切り込んで、圧倒的」に強い西欧勢と厳しい商戦を展開した。相手公団の担当幹部と胸襟を開き相互信頼関係を築くことができ、機械・プラント類の契約を多く結ぶことができた。 西欧勢にと…
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表紙

             東欧革命20年             ある難聴者の「ビジネス版舞踏会の手帖」                 チェコ                ブルノ・プラハ  …
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はじめに

私は1960年代に旧東欧でビジネスに従事しました。 一党独裁国家ではタテマエが第一で、相手のタテマエを尊重しつつ、いかにホンネで語り合えるか、がビジネスを成功させるためには必要でした。 私は当時のチェコスロバキアとルーマニアでそれぞれ2年余り、圧倒的に強い西欧勢と競合し、党機関と秘密警察から脅迫と恫喝を受けながらも、日本から初の大型…
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第一部  一党独裁下のチェコスロバキア 

一九六二年(四十八年前) 初めての共産主義国家入り            ブルノ その一 一九六二年三月、日本からチェコスロバキアに鋳物機械が初輸出され、チェコの第二都市ブルノの鋳物工場に納入された。据付・試運転のためメーカーのS工業から技師が派遣されることになった。 私は当契約当事者だったN商社のデュッセルドルフ駐在員だ…
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 ブルノ その二

週末にスチュートリックの自宅に招かれた そうしたある週末、スチュートリックから私宅に招かれた。 * * * 当時チェコではまだ外国人の私宅訪問は黙認されていた。むろん秘密警察のブラックリストには載せられていたことであろう。 別途ふれることを予定しているルーマニアで…
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 プラハ その一 (一九六二年)

ブルノの鋳物工場への機械納入が機械輸入公団(Strojimport)との商談へと結びついていく。   トーマス・マネジャーとの出会い 一九六二年四月、ブルノでの据付・試運転を終え、工場で署名された機械正式納入書を提出するため、プラハの機械輸入公団を初めて訪れることとなった。バニョバ夫人が予約してくれたヤルタホテルは市内の中心地…
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 プラハ その二 (一九六二)

大型商談が次々と持ち込まれた 機械輸入公団 ボチルカ本部長とコゥバ総括部長の登場 四月半ばのある朝、トーマスが俺の上司に紹介すると言い出した。 珍しいことだと、思わずトーマスの顔を凝視した。彼の眼が笑っている。 一ヶ月ほどの短期間に契約が相次いで成立すると、むろん上の幹部も注目する。 トーマスから説明を受け、そのS工業と…
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 プラハ その三 (一九六二)

いよいよ商談が本格化してきた ボチルカ本部長、コゥバ総括部長との会談を契機として、がぜん忙しくなってきた。 トーマスとの鋳物機械の商談は、各地からの技師派遣もおおむね終わり、サンドスリンガー二台が更に内示され、とりあえず第一段階を終えた。 引き続いてS次長と私はラディエータープラントにつき、担当部長ネメッツと工場からの技師たち…
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 プラハ その四 (一九六二) 

煮詰った大型バーター商談 プラハ入りしたK重工業とシルハ部長以下工場技術陣との打ち合わせはおおむね合意に達した。 シュコダの工作機械も技術面ではさほど問題はなく、チェコ東京通商代表部とK重工業技術陣の話し合いも煮詰った。 値段も数度にわたる折衝で、大型プレスもシュコダ工作機械の合意の範疇に入ってきた。 バーター契約とは、原則…
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 プラハ その五 (一九六三)(一九七六)

S工業のみなさんたち ブルノ見本市が終わると公団での新規商談は低調になる。契約予定の商談は見本市での成果とするため期間中に集中して内示書が調印され、期間中成約した総額と、そのめぼしい契約が対外的に公表され、この見本市の評価を高めることになる。共産主義国家に共通するプロパガンダである。 そのため見本市のあと数ヶ月はいわゆる「買い一…
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第二部   「東欧革命」の成就

一九八九年十一月九日。東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊し、戦後四十数年間、東欧各国を蹂躙したスターリン型社会主義・一党独裁は各国で将棋倒しにように次々と終焉した。チェコでは十一月二十四日に「ビロード革命」が成就し、「プラハの春」が甦ってきた。 そして、この「東欧革命」が私を絶望の底から這い上がらせてくれたのだ。 ここか…
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